趙 陶斎 ちょう とうさい
   

51p×29.5p
正徳3年(1713)生〜天明6年(1786)歿
制作年 天明4年(1784) 72歳
 長崎の生まれ。名は養。字は仲頤。陶斎は号。別号は息心斎・息心居士・拘杷園・清嘩閣などの号がある。父は清人の趙氏、母は長崎の日本人で、南京の商人超氏が長崎にきて、丸山街の女との間で生れた子といわれる。。
 折しも華僧竺庵が長崎の興福寺にやってきた。そこで禅師は陶齋を佛弟子として養育した。享保12年(1727)竺庵は宇治萬福寺の堂頭となったので、また陶齋をつれて宇治黄檗にきた。28歳まで僧籍にあったが、故あって還俗して諸国を遊歴し、江戸に10余年いて、大阪の深見久兵衛氏の家に移り、また堺に移り、能書家として有名になり、教えを受けるものも多かった。また、枳拘丸(丸薬)を売って生計の一助にしていた。陶斎は山水・篆刻に長じた。また文武の典故にも精通していた。天明6年に74歳で亡くなっり、堺南宗寺本源院に葬られた。陶斎は酒の好きな人であったという。
 書は初め唐僧竺庵に書法を学び、のちに明の文徴明・元の趙孟頻(子昂)の書を学び、晩年には北宋の米元章の書を学んだ。陶斎は古人の書の臨書に努め、生涯の楽しみとし、当時陶斎の書跡を求める者がたくさんいた。
 「息心」の下に、白文の「養印」、朱文の「陶齋」の落款印が押されている。箱書きは阪正臣で、巻き止めに「趙陶斎息心墨竹 樅屋(阪正臣)蔵」・「土屋鳳洲翁所贈」とある。

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